『課税と脱税の経済史』を代わりに読む

「だれか代わりに読んでください」の記事があげられてから約一年が経ち、わたしの手元には初めての「確定申告のお知らせ」が届いていた。裏面ではマイナンバーのうさぎが片足立ちをしたり倒立したりしていてやかましい。三枚でセットになった複写の納付書が、空欄を埋めよと仁王立ちで言わんばかりに挟みこまれている。「確定して申告した」ことを証明する領収証書は最後のページについていた。

確定も申告もしない、外から一目でわかる基準に依って課税されていた時代があることを『課税と脱税の経済史』は語る。1697年から1851年までのあいだ、イギリスでは窓に税金がかけられていたという。

当時、住宅に設けられている窓の数をかぞえれば、居住者の社会的地位や財産をおおむね正しく知ることができた。だから、居住者が裕福であればあるほど、それだけ窓税の額が大きくなるといってよかった。また、税額の算出は「窓目視人」が家の外から行なえばよかった。

——マイケル・キーン, ジョエル・スレムロッド『課税と脱税の経済史 古今の(悪)知恵で学ぶ租税理論』中島由華訳(みすず書房、2025)p.21

窓に税金がかけられたら市民はどうするか——かれらはレンガや板で窓そのものを埋めてしまったのである。

窓がなくなったことによる被害がけっして小さくなかった。換気が悪くなったため、伝染病が蔓延した。日当たりが悪くなったため、ビタミンDが欠乏し発育阻害が発生した——フランス人はこれを「イギリス病」と呼んだ。窓税について、「天界の光」に課税しているといって非難する人びとがいた。医学誌は「健康税」であるといって抗議した。

——同上  p.22-23

換気が悪くうす暗い窓のない部屋を想像しようとすると、どうしてもそこにはプルーストの残像がついてまわる。フランスの小説家マルセル・プルーストはパリのアパルトマンにあつらえた「コルク張りの部屋」で『失われた時を求めて』の大部分を書いたといわれる。かれは外界の雑音を完全に遮断したこの部屋で執筆に没頭した。

ところで今日2026年2月26日は、ひさしぶりに雨が降っている。ここ数日はすっかり春日和といったあたたかさで、飛びはじめた花粉はひとびとの目や鼻を痛めつけていた。ひさしぶりの雨だし、ひさしぶりの寒さだ。底が剥がれかけたわたしの靴にはひどく雨が染みこんでいた。ぺしょぺしょと重たくなった靴下を思いださせるかのように、自室でいまこれを書いている真横でも雨音は鳴っている。それはまるでプルーストが閉塞的な部屋でこう書いたのとおなじように。

小さな音が窓ガラスにして、なにか当たった気配がしたが、つづいて、ばらばらと軽く、まるで砂粒が上の窓から落ちてきたかと思うと、やがて落下は広がり、ならされ、一定のリズムを帯びて、流れだし、よく響く音楽となり、数えきれない粒があたり一面をおおうと、それは雨だった。

——マルセル・プルースト『失われた時を求めて(1)』(岩波文庫、2010)p.230-231

「それは雨だった」——、まさしくそんなある日に洗濯物を取りこもうとつっかけを履いてベランダに出てゆく祖母のうしろすがたを思いだす。階段上に折れ曲がった不思議なそのベランダは、せっせと洗濯物を収穫して歩く祖母をあっという間に壁で隠した。わたしは寝室に敷かれた蓙のいやなつめたさを足で感じながら、そのすがたをじっと見ている。はたしてほんとうにあったのか、捏造されたのかもはやわからない記憶だけれども、その小柄な背中とちぢれた黒髪、そして止まぬ雨音だけははっきりと憶えている。

窓に当たる雨の音というのは、さびしさそのものなのかもしれない、と思う。綿谷りさは『蹴りたい背中』を「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつける」と書きだしたけれども、「鳴るさびしさ」というのはきっと雨と窓の音だ。あるいはシャワーが壁や床にぶつかる音。祖母の残り僅かな寿命を想って流した涙を、洗ってくれたシャワーの音。

記憶のなかで洗濯物を取りこむ祖母は、窓に隔てられた向こう側にいて、こちらに戻ってくることはない。その顔すらわたしには見せてくれない。杉田協士の映画『春原さんのうた』は冒頭、主人公の沙知と春原さんがカフェで窓の外の桜を眺める場面にはじまる。しかしその後、春原さんがベランダの外に佇み、沙知がそれを見つめるショットが挟まれてからというもの、ふたりは二度と出会わない。『春原さんのうた』という映画は二時間をかけて、窓によって隔てられた喪失を癒してゆく。春原さんに会いに行くべくベランダに出るわけではなく、ある日はアルバイト先のお客さんと、ある日は自宅にやってきた親戚と、沙知は会話をつみかさねる。そうしていつしかベランダで、「転居先不明の判」*を押されて返ってきた葉書を燃やせるようになるのだ。

 

「確定申告のお知らせ」を見つめつつ、祖母がよく口ずさんだ第九を思いだしている。

 

 

 

*東直子「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」(『春原さんのリコーダー』)

『皮膚、人間のすべてを語る』を代わりに読んでください

『皮膚、人間のすべてを語る 万能の臓器を巡る10章』(みすず書房、2022)

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すごくひさしぶりにちふれウォッシャブルコールドクリームを買った。ハトムギ化粧水とニベア缶らとならんで平成スキンケアの一翼を担っていたコイツは、たしかに肌をモチモチにしてくれるけれども乳化するまでこすりつづけなければならないという面倒がある。それで最近はずっとクリームが透明なオイルに変わるまでの五分から十分のあいだをドラマ鑑賞に使っていて、もう「みなと商事コインランドリー」は三周目に突入している。みなしょーのゆるキュンを浴びるという口実がなければこうも面倒なスキンケアを続けることはできなかっただろう。

わたしは比較的皮膚がつよいほうで、肌トラブルに悩まされたことは人生でほとんどない。多少の肌荒れはあれど皮膚科にかかるほどになったことはほんとうに幼いころを除けば一度もないし、思春期にもにきびが顔を埋めるようなことはなかった。と言うと羨ましがられるし、羨ましがられて当然ではあるのだけれども、そのぶん肌や皮膚というものへの意識はひとよりずっと低い。なにもせずともそれなりを維持できるというのは特権ではありながらも、意識する機会を喪失しているということも意味する。

しかし「皮膚」とひとことで言っても、どこを「皮膚」ととるかはひとによって異なるだろう。中学生のころのわたしは痛々しく青臭かったから四六時中マスクを外せなかった——いわゆる厨二病というやつである。当時のわたしにとってマスクは皮膚の一部であった。皮膚化した不織布はつねに首の「ほんものの」皮膚と擦れ合い、負けた「ほんものの」皮膚のほうは破れて出血した。あのころのわたしといえばいつも首が赤くただれていた。お医者に「マスクのせいで乾燥して肌が荒れている」と言われてもなお外すことはしなかった。マスクはわたしの皮膚だった。

それから五年ほどが経って、人類みながマスクを皮膚として装備するよう要請される時代がやってきた。ある程度コロナ禍が落ちついたあとにも、マスクを外すのが不安だという声が聞かれたのをよく覚えている。皮膚と同一化してしまった物質をあらためて身体から剥がすのには多大な時間と苦労がかかる。いまのわれわれはきっと皮膚化したマスクを外す過渡期にいるのだろう。

皮膚というものは、新陳代謝的にも変容するし、そのうえで「皮膚」という概念が指し示す範囲も日々変わってゆく。皮膚に対して意識の低いわたしは、皮膚を「人間のすべて」などと形容することには躊躇いを抱くけれども、たしかに皮膚は変容しながらわたしを包むわたしの一部ではある。もっともわたしたちの近くにいて、もっともめまぐるしく変化している「皮膚」について、あらためて向き合ってみたい。そしてスキンケアをちゃんとしたい。最近ちょっと鼻の周りがぶつぶつしてる。クレンジングがんばりたい。ので、代わりに読んでください!

『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』を代わりに読んでください

『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』1(講談社、2021)

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東京駅の近くで働いていたころ、ちいかわのポップアップストアが開催されるたびに大量のぬいぐるみを身につけた老若男女が店に流れこんできたことをよく覚えている。強面のスキンヘッドのお客さんが来たと思ったらハチワレのぬいぐるみをつけていただなんて話も同僚のあいだで交わされ、なにかとちいかわのいる職場だった。

わたしのひとつのポリシーとして、旅行に行ったらちいかわのご当地靴下を買って帰るというのがある。だいたいどの地方に行ってもお土産ショップにはちいかわの靴下が売っている。たとえば北陸であればホタルイカの着ぐるみをきたちいかわとハチワレ、恐竜から走って逃げるふたりの柄が売られていた。旅行から帰ってきたら「こんな靴下買ったんですよ」と裾をあげて見せてまわるのがわたしの常である。

数年前、初めてのアルバイト先に馴染めないと泣いていた妹に贈ったアドバイスが「ちいかわの靴下を履いて見せて話しかけてみればいい」というものだった。それくらいわたしはちいかわの靴下をコミュニケーションのとっかかりとして利用している。ちいかわだったらだれでも知っているし、とりあえず「かわいい〜」という反応だけは保証されている。ついでに旅行の話までできてしまう。ちいかわがなければうち解けられなかったであろう幾人もの顔をいまでもありありと思いえがくことができる。

そんなふうに利用しながらも『ちいかわ』というまんがをいまだ読んだことはない。たまにツイッターのトレンドから見かける程度で、ハチワレやくりまんじゅうと呼ばれるかれらがいったい何者なのかはいっさいわからないでいる。どうやら絵柄のわりに闇深な作風であることをなんとなく知っている程度だ。

仙台で買った伊達政宗と笹かまぼこのちいかわ靴下は履きつぶしてあっというまにかかとに穴があいてしまった。もうちいかわを起点においしかった松島の笹かまぼこの話を振ることはできない。喋るために履いていたちいかわたちは、お土産クオリティなこともあってすぐに穴まみれになり、喋りのネタではなくなってしまう。そうやってわたしに消費され捨てられてゆく数多のちいかわとハチワレの顔を想うとやっぱりすこし切なくて、だからこそ愛知のシャチホコ柄をいまだ開封できずにいる。

どんな生きものであるのかも知らずにわたしのコミュニケーションの道具でありつづけてくれるかれらには感謝しかない。むしろ知らないからこそ愛着もなしにこうやって利用できているのかもしれない。きっとわたしはこれからもちいかわのご当地靴下を履いて、その土地の話をする——『ちいかわ』は読まずに。

『名前が語るお菓子の歴史』を代わりに読んでください

『名前が語るお菓子の歴史[新装版]』(白水社、2024)

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昨年約九ヶ月をかけてプルーストの『失われた時を求めて』を読んだあと、マドレーヌをマックスコーヒーに浸して食べた。練乳がどろどろに溶けた甘いコーヒーに砂糖とバターの塊を浸せば、それは甘さにあっという間に口内がもたれた。けれども読破するまでは食べないと決めていたマドレーヌ、岩波文庫14巻分の重みがその過剰な甘味にはあった。

失われた時を求めて』という大長編は、マドレーヌを浸した紅茶をスプーンですくって口に含んだ瞬間、むかしの記憶がぶわあっと蘇るという場面にはじまる。このエピソードから、特定の香りを嗅いだときに過去の記憶が無意識に思いだされる現象が「プルースト現象」と呼ばれるようになった。実際のところプルーストの「私」は匂いというより味によって記憶を蘇らせているため、このことばの用法はすこしばかりズレているような気もするけれども……。

昨年のお菓子の話題といえばプルーストのマドレーヌくらいのものだったけれども、今年はめっきりたべっ子どうぶつだった。ゴールデンウィークに『たべっ子どうぶつ THE MOVIE』が公開され、アルバイトが終わったあと意気揚々と劇場に駆けこんだというのに、機材トラブルで上映は中止になってしまった。上映中止だなんて23年の人生で初めての経験だった。わたしはともかく、映画を楽しみにしてきていた小さな子どもたちが気の毒だったし、頭を下げつづける支配人も気の毒だった。

払い戻しと無料チケットを貰って帰り、翌日の朝一番の回でリベンジ。モフモフのたべっ子たちがアイドルとしてパフォーマンスする冒頭から一気に引きこまれ、お菓子を食べて思わず笑みをこぼした幼きころを思いだしたりもした。この映画にはたべっ子どうぶつ原作のギンビス製のお菓子だけでなく、他社のお菓子たちもキャラクターとして登場する。うまえもん、タラタラしてんじゃねーよ、ハリボー、ヒーおばあちゃんなどなど、なじみ深いかれらが命を吹きこまれ動きまわる姿には感動せずにはいられない。わたしは小さいころ、オレオとかコロンのクリーム部分が好きだったなあだとかしみじみもしてしまった。

最後の展開に目頭を熱くしつつ明点した劇場を出ようとすると、おなじく帰ろうとしていた関口さんと階段で鉢合わせた。もう、おたがいに笑いくずれた。こんな朝早くの、しかもたべっ子どうぶつの映画で会うことなんてある? しばらくげらげら笑っていた。わたし(たち)の涙はもはや映画で流したものなのか、そのあとの邂逅による笑い由来のものなのかわからなくなっていた。

たべっ子どうぶつ THE MOVIE』を見ると、いろいろな種類のお菓子があるからこそわたしたちは笑顔でおやつを楽しめるのだと気づかされる。もしもお菓子が一種類に制限されていたら、三時のおやつはたのしい時間ではなくなってしまうだろう。そうしてひとつひとつのお菓子に紐づけられた記憶は、ふとした瞬間に味覚や嗅覚によって呼びもどされる。

マドレーヌを食べるたびにプルーストを読んでいた日々のことを思いだすだろうし、たべっ子どうぶつを食べるときにはあの遭遇のおもしろみが蘇ってくるだろう。そんなマドレーヌやビスケットがなぜその名前で呼ばれるようになったのか、この本を読めばきっとわかると思うので、代わりに読んでください!

『私たちはいつから「孤独」になったのか』を代わりに読む

「代わりに読んでください」の記事はこちら↓

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一冊ぽっちの読書で「孤独」を理解できるのであれば、人間の寿命は80年間も必要ない。わたしたちはいつから「孤独」になったのか? そもそも孤独とはなにか? 読む前からわかっていた唯一のことといえば、この本を通読したとてわたしは「孤独」を理解できないということだった——こういう冷笑的な態度は中学生のころから治るどころか悪化の一途を辿っているようにすら思える。

とはいえタイトルに括弧でくくってまで入れられた「孤独」を論じる本なのだから、暫定的にでも孤独の定義はなされなければならない。アルバーティは、スウェーデンのリンショーピング大学の社会福祉研究学科教授であるラーズ・アンダーソンによる孤独の定義を引く(孫引になるのを許してほしい)。それは「周りの人びとから疎外され、誤解され、あるいは拒否されていると感じる場合や、さらに/あるいは、社会的に望ましい活動のなかでも、とりわけ社会的統合を感じたり、感情的な親密さを感じる機会が得られたりするような活動に、ともに取り組む仲間がいない場合に生じる精神的苦痛が持続している状態」(p.6)というものである。つまり、感情とは無関係にたんにひとりでいる「ワンリネス(oneliness)」とは性質を違える、「疎外感や大切な人たちと疎遠になってしまったという意識的、認知的な感覚」「世界のどこにも自分の居場所がないという感覚」(p.6)こそが「孤独」の本質であるのだという。現代流に噛みくだけば「望まないぼっち」とでもいうところだろうか。

「ぼっち」ということばで思いだされるのは『ぼっち・ざ・ろっく!』のぼっちちゃん=後藤ひとりである。ぼっちちゃんは中学時代、バンドのメンバー集めをすべくCDを机に置いてアピールしたりバンドグッズを学校に持って行ったりして気づいてもらおうとしたが、「お昼のリクエストソングで/当時ハマっていたデスメタル流して/それから誰も/目を合わせてくれなく…」なったという。高校生になったぼっちちゃんは懲りずに大量のバンドグッズとともにギターを背負って登校するのだけれども、当然怖がられるばかりで話しかけてはもらえない。公園のブランコでひとり落ちこむぼっちちゃんは、ベンチに座るくたびれたサラリーマンを見て、「ここに集う人たちは/私と同じで孤独を抱えてるんだ/あの人はきっと家庭内別居中で/家に帰りづらいんだろうなぁ」と「孤独」と言うキーワードを用いて同情する——結局かれは妻と娘と待ち合わせをしていたに過ぎず、ぼっちちゃんは絶望するのだが。

後藤ひとりは「孤独」なのだろうか。伊地知虹夏にサポートギターとしてなかば強引に誘いこまれ、最終的に「結束バンド」を結成するに至るまえの後藤ひとりは「孤独」だったのだろうか。本人が「孤独」と感じていればそれは「孤独」であるという正論は置いておいても、ぼっちちゃんが太い線で引く陰キャ陽キャの境界こそが、ぼっちちゃんの「孤独」そのものであるように思われる。アルバーティはこう書く。

孤独が増大するのは、個人と世界のあいだが断絶しているときだ。(p.ⅶ)

世界とのあいだに深い断絶を抱えた人間=「陰キャ」にシンパシーを抱き、そうでない人間=「陽キャ」だとわかったとたん、あちら側の理解しあえない者として遠ざける後藤ひとりの手癖はわたしにも覚えがある。「陰キャ」であるわたしと「陽キャ」が中心となってつくりあげられた世界のあいだの溝に嵌りこんで、妬みと僻みにがんじがらめにされてばかりの人生だった。「陽キャ」になりたいわけではないし、きらきらしたインスタをあげたいわけでもない。けれどもいかにも「孤独」とは無縁そうな「陽キャ」を見ると胸がざわざわする。世界と接続している(ように見える)かれらの姿は、わたしの断絶感を浮き彫りにし「孤独」を増大させる。この断絶感のあらわれこそが「青春コンプレックス」というやつなのだろう。

この単語がはじめて出てくるのは、好きな音楽を訊かれたぼっちちゃんが「青春コンプレックスを刺激しない歌ならなんでも」と答えるところだ。「夏とか青い海とか花火みたいな」自分には経験しえなかった青春を高らかに歌った曲にはたしかにえぐられるものがある。砂浜の白に赤を散乱させたスイカ割り、だれが最後まで残るか競争した線香花火、ひまわり畑の向こうでふり向く彼女——青春ソングを聴くたびに存在しない記憶が脳内を駆けめぐってはわたしを苦しめてきた。

後藤ひとりは齢十五にして強烈な青春コンプレックスを拗らせた「孤独」な「ぼっち」ではあるけれども、彼女が抱える「孤独」はいま現在のものよりも将来に向けられているようだ。たとえば彼女は酒の溺れる自分を想像し、「お母さん最近ついに/ハロワ行けって言わなくなったな」と引きこもっては輝かしい過去を夢想する将来を考えたり、就職先で営業成績が伸びず引きこもる自分を想像し「おぎゃあああああああああ/やっぱりニートあああああ」と叫んだりする。ぼっちちゃんは中学時代のぼっち生活を二度と思いだしたくないものとしながらも、将来到来しかねない圧倒的な「孤独」に震えてもいる。ぼっちちゃんにとっての「孤独」とはいまを飛び越えた過去と未来にそれぞれ点在していて、いまのぼっちちゃんはそれらに共感を寄せているのかもしれない。

『私たちはいつから〜』には寡婦寡夫となったひとびとのエピソードが多く登場する。

喪失の孤独はいつ襲ってくるかわからない。しかし死別というのはそういうものなのだ。ほんの一瞬の記憶がよみがえったり、なつかしい匂いや音がしたり、思い出の品を目にしたり、(p.131)誰かのことがふと頭に浮かんだりした拍子に、突然、自分が寡婦寡夫として独りぼっちであることを思い知らされる。(p.132)

むかしにはたしかに存在していただれかの記憶が、あるいは決定的ななにかが失われたままに年を重ねいずれ死を迎える不安が、わたしたちを「孤独」にさせているのだろうというのがいったんのところのわたしの結論だ。「陰キャならロックをやれ!」とぼざろは言うけれども、ロックをやっても「孤独」の根源的な部分は解消されない。しかし解消されないからこそ、孤独や鬱憤、青春コンプレックスの歌はつくられつづける。ぼっちちゃん、孤独感を手放すことなく音楽をつづけていってくれ、ぼっちの星になってくれ——。

 

ところで「代わりに読んでください」の関口さんはに応答するとすると、本屋と孤独について関口さんとわたしのあいだには小さくない隔たりがあるように思える。関口さんは書店員の目線から「少なくともチェーン店においては、基本的に孤独とはなんぞや〜?な時間が流れていると言ってよいだろう」と書いていた。一客でしかないわたしにとってチェーン書店での時間は逆に、孤独との闘いそのものである。それは「読めない本」の存在によって生み出される。

乗代雄介は『本物の読書家』のなかで、「誰かがわたしの読んでいない本を読んでいる」という坩堝にはまる読書家という生きものについて書いている。

しかしながら、誰かがわたしの読んでいない本を読んでいるという傍点がつくる落とし穴にはまりながら、一方で、個人的塹壕=タコツボとして利用し、しまいには墓穴としての活用を余儀なくされるその壁面に、浅ましさと美しさの斑を描く読書家の矜持が存するのも事実だろう。その底においてわたしは、ここが落とし穴にすぎないことを限りなく明晰に意識し続けておきたいとふさぎ込む、どちらかといえば少数派の人間であることを自負している。それを証明したい余りに、喜んで酸欠に陥りたがるせいで、文章が過呼吸の様相を呈してくるというのがわたしの慎ましい自己分析だ。
——乗代雄介『本物の読書家』(講談社文庫、2022)p.25

落とし穴にはまっていることにも気づかない多数派のわたしはチェーン書店のような膨大な本がある場所に行くとひどく孤独な感じをおぼえるし、逆に小さな個人経営のお店に入るとなにを話すわけでもなくてもひととつながっている実感をおぼえる。働き手と客という立場の違いで、こうも感覚が逆転するのはおもしろいことだった。客としてチェーン店に入るとまず圧倒されるのは、「読めない本」の多さである。それは物理的にすべての書物を読むには人生は短すぎるということ、あるいは読んだとておもしろさを理解できない本が存在しているという事実でもある。わたしたちはなぜ本屋に入るのか——それは読みたい本と出会うためでしかない。そうであるのにチェーン店においては「読めない本」に取り囲まれ、疎外感や居場所のない圧迫感をおぼえることになる。だからこそ自分の好みに合った個人書店の店内には、本という友人がたくさんいて、孤独をおぼえることはない。

しかしだからといって大量の本が囲まれた空間を、孤独の空間だと一蹴するつもりもない。アルバーティは図書館というインフラがひとびとが孤独に陥らないためのセーフティネットとして機能することを指摘している。

二〇〇〇年代の社会的支出の削減によって、図書館を閉鎖する地方自治体が増えているが、図書館は長いあいだ、社会の幅広い層の人びとを集め、そこにコミュニティーが成立するような公共空間を提供するという市民的役割を担ってきた。二一世紀においては、人びとが入場料や利用料を支払わなくても集まれる物理的空間がほとんどない。言い換えれば、本が社会構造にとっていかに重要であり、人びとが読書を通じて仲間を見つけるために本がどれほど重要であるとしても、図書館が提供するのは本だけではないということだ。したがって図書館を守るべき理由には、道徳的、教育的な理由だけでなく、医学的、健康的な理由もあるのだ。(p.184)

「読書を通じて仲間を見つける」空間としての図書館は「本だけではな」く、望まない孤独からの逃げ道を与えてくれる。そして孤独対策のセーフティネットとしての空間は畢竟図書館である必要もなく、それは書店でも読書会でもいいし、SNS上でだっていいはずだ。あるいは「読書を通じて仲間を見つける」のではなく、本そのものが仲間になってくれることだってあるはずだ。私たちがいつから「孤独」になったのかはわからないけれども、わたしたちの「孤独」は読書によって癒されうるのだという現前たる事実はひとびとの救いとなるはずだ。

『雨、太陽、風  天候にたいする感性の歴史』を代わりに読む

「代わりに読んでください」の記事はこちら↓

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海浜幕張駅の改札を出、北口広場におり立つと、アコーディオンの蛇腹で連結された二両のバスがそのからだをしならせながら走るのが見えた。あざやかな緑で塗られたそのバスはどこか苦しげに交差点へ出ていく。わたしはバス停に沿って設置された雨よけのしたを歩いていた。

本降りというほどではないものの雨はぱらぱらと降っていて、だれもが傘をさしていた。駅とオフィス街をつなぐ交差点には色とりどりの傘がゆきかう。ゴッホの《ひまわり》がプリントされた傘をさしたわたしの視界は、神々しく黄色に光っていた。信号をわたってやってくる学生たちのかたまりはひまわりの黄色を通しているからか、やけに青春のきらめきが増幅されているようにみえた。大きなリュックを背負い、ひどく横に広がりながら歩くかれらからは「マジヤバい」と「それな」ばかりが聞こえてくる。先生の苗字と思われる二文字に「ティー」をつけたあだ名が連呼されたりもしていた。かれらのような若さを失ってしまった部外者からするともはやなにを言っているのかわからない会話も、かれらからすればからだにしみこんだ反射的なコミュニケーションなのだろう。「それな」のひと言でわかった/わかってもらえたつもりになって重ねる会話のうえに本ものの理解があるのかもしれない、と過ぎてゆくかれらの会話を聞きながら思う。中高生のころわたしも交わしていた造語まみれの会話でしか伝えられない感情はたしかに在った。

信号をわたりきると、屋根のある道にはいる。コンビニやファミレス、ゲームセンターがたち並ぶその施設の二階には映画館が入っており、数年前に名称が変わったもののいまだむかしの名前で呼ばれつづけている。シネプレックスユナイテッド・シネマになってもシネプレである。十五年前にイオンになったカルフールという幕張のショッピングセンターを、いまだにカルフール呼びするひとをわたしは幾人も知っている。頑固で順応力に欠けるなあと思わないこともないけれども、たしかにそこに存在したカルフールとそこにいたひとびとを呼びだしつづけることは、その土地と名前に根づいた記憶を失わない方法でもある。きっとわたしはこのさきもずっとこの映画館をシネプレと呼ぶだろう。ここで見た数々の映画やライブビューイングの思い出を、シネプレという名前に紐づけて、手ばなさないように。

さて、幕張の北東に進むわたしが向かっているのは本屋lighthouseである。つまり「To the Lighthouse」している。ヴァージニア・ウルフ灯台へ(原題:To the Lighthouse)』は、タイトル通り「灯台へ」行く小説で、しかし第一部で灯台へ向かうことは叶わない。ラムジー夫人は「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったらばね」と、息子のジェームズに灯台行きを期待させる。しかしラムジー氏は「でも」「晴れにはならんだろう」とおもしろくない態度である。天気が良くなければ灯台には行けない、それは灯台=本屋lighthouseにも当てはまることのようだった。関口さんは「代わりに読んでください」でこう書いた。

天気が悪い日は、あるいは天候の変化が激しい日々が続くと、本屋には人が来なくなる。少なくとも本屋lighthouseはそうであり、おそらくこれは灯台の名を冠する本屋をやっていることと関係があるのだろう。荒天の海に近づいてはならない。

天気が悪い日のTo the 本屋lighthouseにともなう困難のひとつに、京葉線のよわさがある。総武線や京成線の幕張駅よりもずっと遠くにある京葉線海浜幕張駅からは歩いて三十分ほどかかるのだけれど、そもそも海浜幕張に時間通りに着けない可能性を、とくに強風の日には考慮しておかねばならない。暴風柵の設置によって遅延や運行中止は少なくなったというものの、京葉線沿いの風はつよく、幕張の駐輪場では横殴りの風にドミノ倒しにされた自転車たちのすがたがよく見られる。むかしのように「風が吹けば京葉線が止まる」とことわざ化するほどのよわさは改善されてきている。しかしまだ風の吹く日の京葉線には警戒してしまう、のは以前の風耐性ゼロの京葉線を知っているからであろうか。

『雨、太陽、風 天候にたいする感性の歴史』の風を扱った章では、風のもつ「二つの対立する側面」として「嵐となる時は物を破壊する災厄」、そして「物を動かす力としてはひとつの恩恵」を挙げている。幕張に吹く風は、京葉線を遅れさせ、ZOZOマリンスタジアム――思えばここをQVCマリンフィールドと根気づよく呼んでいるひとをわたしは見たことがない――のボールを曲げる、「災厄」としての側面しかもっていないように思えてならない。強いて言うなれば、風が吹けば遅刻の責任を京葉線になすりつけることができるといったことくらいの恩恵しかない。

風の「恩恵」としての側面、「物を動かす力」といってもだいたい現代の事物はすべて電気で動いてしまう。わざわざ風のちからを借りる必要もないのが正直なところだ。もはや風は負の側面しかもたぬかなしき破壊者と化してしまったのだ、とせつなさに身をひたしていたとふと、風をエネルギーに動くとある動物のことを思いだした。二年前、わたしはその獣がぐるぐると足を回して歩くさまを見物客の山に埋もれて眺めていた。

海浜幕張から三駅、千葉の奥にはいったところに千葉県立美術館がある。そこで千葉県誕生百五十年を記念して2023年、オランダ文化交流事業として「テオ・ヤンセン展」がおこなわれていた。焦げたチョコレートのような煉瓦にかこまれた中庭を、人間ほどの背丈の骨組に帆を乗せた獣が歩く、「ストランドビースト初歩き」という予約必須のイベントには、雨天・荒天の場合中止の注意書きがあり、わたしはその一週間のあいだ毎日天気予報を確認しては、雨は降らないでいてくれるだろうか、適切な風は吹くだろうか、と気を揉んでいた。

当日は雲ひとつない青天で、直に射してくる陽光が暑いくらいだった。コンビニで買ったつめたいソーダをかばんに、中庭へ出る。ストランドビーストを囲うように並ばされた人間たちはおのおのスマホをかかげ、白く細い紐にひっぱられて歩くその獣を動画におさめていた。複雑に組まれた木の足たちが有機的に、連動しながら歩を進めてゆく。そのたびに左右と頭上につけた帆がふくらむ。その生きものにはないはずの脈拍と、まわりを流れる空気が同期していくようだった。ビーストは何度も何度も人間のあいだを往復させられ、そのうち撮影にも飽きた人間たちのいくらかは早々に建物へ戻っていってしまった。思えばあれも、風の力で動く動物を人力でひき摺っているにすぎず、正確には動力としての風による「恩恵」を受けているわけではなかった。風をエネルギーとする生きものすら人力で動かしてしまっては、風の「恩恵」としての側面を完全否定しているようである。風はやはり「破壊する災厄」でしかないのか。

灯台へ』第二部は、ラムジー夫人の死後、取りのこされ見捨てられたからっぽの家のすがたを描く。数ページまえまではひとびとがさわがしく会話に興じていたというのに、いまや家はしずかなぬけがらだった。

今や夜は、風と破壊に満ちている。木々はしなっては大きくたわみ、木の葉はわれ先に飛び散って、芝生一面に散り敷くばかりか、溝にたまり、雨どいを詰まらせ、雨に濡れた小径にまで広く乱れ散っていく。そして海もまた、荒れ騒ぎ高く波立つ。こんな時、誰か眠れずにいる人が、自分の疑問に対する答えなり、自分の孤独を分け合う人なりに浜辺で出会うことを夢見て、寝具をはねのけ、一人で砂浜に降りて行ったとしても、神技にも等しい素早さで、奉仕者のごとき像(ルビ:イメージ)が姿を現わし、混沌として夜に秩序を与えたり、世界に魂の広がり(ルビ:コンパス)を映し出させたりすることなど、到底望むべくもない。わずかな手がかりは彼の手の中でやせ細るばかりで、代わりに嵐の怒号が激しく耳をつんざき続ける。こんな混乱の中では何もできない。まして、寝ていた人がわざわざベッドから起きてまでも答えを求めようとした、何が、なぜ、何のために、といった人生の根本的な疑問を夜に向かって差し出すのは、ほとんど無意味なことにさえ思えよう。
――ヴァージニア・ウルフ灯台へ御輿哲也訳(岩波文庫、2024)p.244-p.245

びゅうびゅうと打ちつける風が、窓のすきまから入ってきて不気味な音を立てる夜、祖父母の家で目をさました幼きわたしは、寝静まった母と妹の様子を確認し、そこはかとない孤独とさびしさにおそわれることがたびたびあった。祖父母の住む幕張の家にはいつも風が吹き荒れていた。陽も落ちた昏さのなか、風の轟音ばかりがひびくあの寝室を思うと、郷愁よりもおそろしさがまさって想起される。出口のない宵の自問自答は、風しか相手をしてくれなかった。そしてその風はやさしい相談相手ではなく、わたしを追いたてつづける。あなたはそのままで大丈夫だよ、とあたたかい手のひらを乗せてくれた祖母とは正反対に、わたしという人間の核をなぶって崩壊させてゆくようだった。風が、風の音がわたしたちを元気づける動力源になるなんてことはけっしてなく、やはり風は精神面においても破壊者である――考えれば考えるほど風という概念は奪う者でしかなかった。

つよく風が吹いている幕張は、イオンモールマリンスタジアム幕張メッセがたち並び、ひとはたくさんいるはずなのにどこかずっとさびしくてこわい町だ。強風ゆえにまっ直ぐ歩けなかったり、となりのひとの声すら聞こえなくなったりもする。そんな風の土地を一歩一歩歩いていったさきに、灯台=本屋lighthouseはある。灯台へ行くことの叶わなかったラムジー夫人の想いも背負って、雨風を受けながらTo the 本屋lighthouse。近くにはおいしいコーヒー屋さんとたい焼き屋さんもある、たしかなあかりが灯された場所だ。

『発声と身体のレッスン』を代わりに読んでください

鴻上尚志『発声と身体のレッスン  魅力的な「こえ」と「からだ」を作るために』(ちくま文庫、2012)増補新版(筑摩書房、2012)

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初めて濱口竜介の映画を映画館で見たのが『ドライブ・マイ・カー』で、地元のイオンシネマをふらふらと出てからというものぼそぼそ“あの”喋りかたでひとりごちながら帰っていったのをよく覚えている。そのあと何度か濱口監督が登壇するイベントに参加し、ご本人の喋る声を生で聞く機会にもめぐまれた。濱口竜介は、濱口竜介の映画に出てくる人物のような喋りかたをする。濱口映画のひとみたい……!と濱口の声を聴くたびに感動している。

濱口竜介の映画というと『ジャン・ルノワールの演技指導』という記録映画にも残される「イタリア式本読み」というメソッドを通じて俳優のからだと声とをひとつの場でつくりあげてゆくのが特徴的だ。『ドライブ・マイ・カー』劇中でもこのメソッドは登場し、一堂に会した俳優たちは『ワーニャ伯父さん』というチェーホフの戯曲をできるかぎり抑揚や感情を抜いたニュートラルな声で読み合わせてゆく。西島秀俊演じる演出家・家福は、ニュアンスを含んだ読みの声を響かせる俳優に「テキストに集中してみろ」「ただ読むだけでいいんだ」とも伝える。

『ドライブ・マイ・カー』を見たことがあるひとならばきっと全員が、この独特に平坦な本読みの声を真似しただろう。ただ平らというわけではなく、発されることばひとつひとつが生命のように重みをもち、声そのものが息づいているような感じ。そのことばの意味がじっとりと胸の奥底に浸透してゆく、その湿った感触。それらは真似してみようとて簡単にできてしまうことではなかった。

濱口は同様の手法で製作した映画『ハッピーアワー』での本読みについて、このように述べている。

からだ独自のグルーヴ(揺らぎ)は保ちつつ、何度でも、正確にどの箇所もおなじ強さでテキストを読み上げる。その調子が、脚本を伏せても保たれるようになる。目を閉じて聞くと本を読んでいるのか暗唱しているのかわからなくなるその頃に、声にはある一定の「厚み」が与えられるようだった。非常に安定した演者たちの声はまるで「テキストそのもの」のようだ。ただ、同時に、それは当然彼女たち自身の声である。剥き身の声とでも言うべきか。彼女たちもまた聞くことで変わる。繰り返される本読みの中でテキストを聞き取り、彼女たちは「テキスト的人間」になりゆくようだった。テキストがはらわたに落ちた状態でも言おうか。それはテキストがテキストのまま、演者に保持されている状態であり、テキストと演者それぞれ別のもののまま、共存しているような状態だ。それはカメラ前で演じるための、即ち「自分が自分のまま、別の何かになる」ための一つの準備だったように思われる。 

――濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』(左右社、2015)p.64

たとえばちょっとした発表のときに、「剥き身」でありながら「テキストそのもの」でもある声で発表できたら格好いいだろうなあとわたしは夢想する。そうしてニュアンスを抜いて何度か練習してはみるけれども、濱口映画に出てくるような「テキスト的人間」になることはできず、ぎこちなくテキストを読みあげる「わたし」が存在するばかりだった。発表本番になればいっそう緊張と動揺にこころは乱され、テキストとわたしの距離は遠ざかってしまう。

いびつに震える声でしか話せないわたしには「魅力的な「こえ」と「からだ」を作るために」というこの本の副題がずっと印象に残っていた。発声も身体もおぼつかない。しかしみずからの「こえ」と「からだ」に向き合うだけの勇気もない。そうやってこの本はいまに至るまで手に取られずにきた。

「代わりに読んでください」というのはこの本――『発声と身体のレッスン』というテクストをわたしの代わりに読んでくださいという意味でありながら、また、「魅力的な「こえ」と「からだ」」によって「代わりに読み上げてください」という意味でもある。わたしの周りの人間が皆、濱口映画のような喋りかたをしはじめる世界を楽しみにしている。

 

代わりに読んでもらいました↓

https://sizu.me/b_lighthouse/posts/36oxv8knwrbc