『私たちはいつから「孤独」になったのか』を代わりに読む

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一冊ぽっちの読書で「孤独」を理解できるのであれば、人間の寿命は80年間も必要ない。わたしたちはいつから「孤独」になったのか? そもそも孤独とはなにか? 読む前からわかっていた唯一のことといえば、この本を通読したとてわたしは「孤独」を理解できないということだった——こういう冷笑的な態度は中学生のころから治るどころか悪化の一途を辿っているようにすら思える。

とはいえタイトルに括弧でくくってまで入れられた「孤独」を論じる本なのだから、暫定的にでも孤独の定義はなされなければならない。アルバーティは、スウェーデンのリンショーピング大学の社会福祉研究学科教授であるラーズ・アンダーソンによる孤独の定義を引く(孫引になるのを許してほしい)。それは「周りの人びとから疎外され、誤解され、あるいは拒否されていると感じる場合や、さらに/あるいは、社会的に望ましい活動のなかでも、とりわけ社会的統合を感じたり、感情的な親密さを感じる機会が得られたりするような活動に、ともに取り組む仲間がいない場合に生じる精神的苦痛が持続している状態」(p.6)というものである。つまり、感情とは無関係にたんにひとりでいる「ワンリネス(oneliness)」とは性質を違える、「疎外感や大切な人たちと疎遠になってしまったという意識的、認知的な感覚」「世界のどこにも自分の居場所がないという感覚」(p.6)こそが「孤独」の本質であるのだという。現代流に噛みくだけば「望まないぼっち」とでもいうところだろうか。

「ぼっち」ということばで思いだされるのは『ぼっち・ざ・ろっく!』のぼっちちゃん=後藤ひとりである。ぼっちちゃんは中学時代、バンドのメンバー集めをすべくCDを机に置いてアピールしたりバンドグッズを学校に持って行ったりして気づいてもらおうとしたが、「お昼のリクエストソングで/当時ハマっていたデスメタル流して/それから誰も/目を合わせてくれなく…」なったという。高校生になったぼっちちゃんは懲りずに大量のバンドグッズとともにギターを背負って登校するのだけれども、当然怖がられるばかりで話しかけてはもらえない。公園のブランコでひとり落ちこむぼっちちゃんは、ベンチに座るくたびれたサラリーマンを見て、「ここに集う人たちは/私と同じで孤独を抱えてるんだ/あの人はきっと家庭内別居中で/家に帰りづらいんだろうなぁ」と「孤独」と言うキーワードを用いて同情する——結局かれは妻と娘と待ち合わせをしていたに過ぎず、ぼっちちゃんは絶望するのだが。

後藤ひとりは「孤独」なのだろうか。伊地知虹夏にサポートギターとしてなかば強引に誘いこまれ、最終的に「結束バンド」を結成するに至るまえの後藤ひとりは「孤独」だったのだろうか。本人が「孤独」と感じていればそれは「孤独」であるという正論は置いておいても、ぼっちちゃんが太い線で引く陰キャ陽キャの境界こそが、ぼっちちゃんの「孤独」そのものであるように思われる。アルバーティはこう書く。

孤独が増大するのは、個人と世界のあいだが断絶しているときだ。(p.ⅶ)

世界とのあいだに深い断絶を抱えた人間=「陰キャ」にシンパシーを抱き、そうでない人間=「陽キャ」だとわかったとたん、あちら側の理解しあえない者として遠ざける後藤ひとりの手癖はわたしにも覚えがある。「陰キャ」であるわたしと「陽キャ」が中心となってつくりあげられた世界のあいだの溝に嵌りこんで、妬みと僻みにがんじがらめにされてばかりの人生だった。「陽キャ」になりたいわけではないし、きらきらしたインスタをあげたいわけでもない。けれどもいかにも「孤独」とは無縁そうな「陽キャ」を見ると胸がざわざわする。世界と接続している(ように見える)かれらの姿は、わたしの断絶感を浮き彫りにし「孤独」を増大させる。この断絶感のあらわれこそが「青春コンプレックス」というやつなのだろう。

この単語がはじめて出てくるのは、好きな音楽を訊かれたぼっちちゃんが「青春コンプレックスを刺激しない歌ならなんでも」と答えるところだ。「夏とか青い海とか花火みたいな」自分には経験しえなかった青春を高らかに歌った曲にはたしかにえぐられるものがある。砂浜の白に赤を散乱させたスイカ割り、だれが最後まで残るか競争した線香花火、ひまわり畑の向こうでふり向く彼女——青春ソングを聴くたびに存在しない記憶が脳内を駆けめぐってはわたしを苦しめてきた。

後藤ひとりは齢十五にして強烈な青春コンプレックスを拗らせた「孤独」な「ぼっち」ではあるけれども、彼女が抱える「孤独」はいま現在のものよりも将来に向けられているようだ。たとえば彼女は酒の溺れる自分を想像し、「お母さん最近ついに/ハロワ行けって言わなくなったな」と引きこもっては輝かしい過去を夢想する将来を考えたり、就職先で営業成績が伸びず引きこもる自分を想像し「おぎゃあああああああああ/やっぱりニートあああああ」と叫んだりする。ぼっちちゃんは中学時代のぼっち生活を二度と思いだしたくないものとしながらも、将来到来しかねない圧倒的な「孤独」に震えてもいる。ぼっちちゃんにとっての「孤独」とはいまを飛び越えた過去と未来にそれぞれ点在していて、いまのぼっちちゃんはそれらに共感を寄せているのかもしれない。

『私たちはいつから〜』には寡婦寡夫となったひとびとのエピソードが多く登場する。

喪失の孤独はいつ襲ってくるかわからない。しかし死別というのはそういうものなのだ。ほんの一瞬の記憶がよみがえったり、なつかしい匂いや音がしたり、思い出の品を目にしたり、(p.131)誰かのことがふと頭に浮かんだりした拍子に、突然、自分が寡婦寡夫として独りぼっちであることを思い知らされる。(p.132)

むかしにはたしかに存在していただれかの記憶が、あるいは決定的ななにかが失われたままに年を重ねいずれ死を迎える不安が、わたしたちを「孤独」にさせているのだろうというのがいったんのところのわたしの結論だ。「陰キャならロックをやれ!」とぼざろは言うけれども、ロックをやっても「孤独」の根源的な部分は解消されない。しかし解消されないからこそ、孤独や鬱憤、青春コンプレックスの歌はつくられつづける。ぼっちちゃん、孤独感を手放すことなく音楽をつづけていってくれ、ぼっちの星になってくれ——。

 

ところで「代わりに読んでください」の関口さんはに応答するとすると、本屋と孤独について関口さんとわたしのあいだには小さくない隔たりがあるように思える。関口さんは書店員の目線から「少なくともチェーン店においては、基本的に孤独とはなんぞや〜?な時間が流れていると言ってよいだろう」と書いていた。一客でしかないわたしにとってチェーン書店での時間は逆に、孤独との闘いそのものである。それは「読めない本」の存在によって生み出される。

乗代雄介は『本物の読書家』のなかで、「誰かがわたしの読んでいない本を読んでいる」という坩堝にはまる読書家という生きものについて書いている。

しかしながら、誰かがわたしの読んでいない本を読んでいるという傍点がつくる落とし穴にはまりながら、一方で、個人的塹壕=タコツボとして利用し、しまいには墓穴としての活用を余儀なくされるその壁面に、浅ましさと美しさの斑を描く読書家の矜持が存するのも事実だろう。その底においてわたしは、ここが落とし穴にすぎないことを限りなく明晰に意識し続けておきたいとふさぎ込む、どちらかといえば少数派の人間であることを自負している。それを証明したい余りに、喜んで酸欠に陥りたがるせいで、文章が過呼吸の様相を呈してくるというのがわたしの慎ましい自己分析だ。
——乗代雄介『本物の読書家』(講談社文庫、2022)p.25

落とし穴にはまっていることにも気づかない多数派のわたしはチェーン書店のような膨大な本がある場所に行くとひどく孤独な感じをおぼえるし、逆に小さな個人経営のお店に入るとなにを話すわけでもなくてもひととつながっている実感をおぼえる。働き手と客という立場の違いで、こうも感覚が逆転するのはおもしろいことだった。客としてチェーン店に入るとまず圧倒されるのは、「読めない本」の多さである。それは物理的にすべての書物を読むには人生は短すぎるということ、あるいは読んだとておもしろさを理解できない本が存在しているという事実でもある。わたしたちはなぜ本屋に入るのか——それは読みたい本と出会うためでしかない。そうであるのにチェーン店においては「読めない本」に取り囲まれ、疎外感や居場所のない圧迫感をおぼえることになる。だからこそ自分の好みに合った個人書店の店内には、本という友人がたくさんいて、孤独をおぼえることはない。

しかしだからといって大量の本が囲まれた空間を、孤独の空間だと一蹴するつもりもない。アルバーティは図書館というインフラがひとびとが孤独に陥らないためのセーフティネットとして機能することを指摘している。

二〇〇〇年代の社会的支出の削減によって、図書館を閉鎖する地方自治体が増えているが、図書館は長いあいだ、社会の幅広い層の人びとを集め、そこにコミュニティーが成立するような公共空間を提供するという市民的役割を担ってきた。二一世紀においては、人びとが入場料や利用料を支払わなくても集まれる物理的空間がほとんどない。言い換えれば、本が社会構造にとっていかに重要であり、人びとが読書を通じて仲間を見つけるために本がどれほど重要であるとしても、図書館が提供するのは本だけではないということだ。したがって図書館を守るべき理由には、道徳的、教育的な理由だけでなく、医学的、健康的な理由もあるのだ。(p.184)

「読書を通じて仲間を見つける」空間としての図書館は「本だけではな」く、望まない孤独からの逃げ道を与えてくれる。そして孤独対策のセーフティネットとしての空間は畢竟図書館である必要もなく、それは書店でも読書会でもいいし、SNS上でだっていいはずだ。あるいは「読書を通じて仲間を見つける」のではなく、本そのものが仲間になってくれることだってあるはずだ。私たちがいつから「孤独」になったのかはわからないけれども、わたしたちの「孤独」は読書によって癒されうるのだという現前たる事実はひとびとの救いとなるはずだ。