『失われたスクラップブック』を代わりに読む

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自死に関する話題があります。

 

 丸善に平積みされているのを見てからずっと欲しいと思ってきた『失われたスクラップブック』だったけれども、さすがはルリユール叢書で六千円弱もするわけで、手に取ってひっくり返してはその値段に怖気づいて買わずじまいに店を出ることが何度もあった。それでも時おり、やっぱりあの本気になるなあ、ピリオドなしの「ポスト・ギャディス」の小説っていったい何者なのだろう、定期的に見かける本書に打ちのめされたひとによる賞賛評も興奮が前面にせり出しているせいで実態がよくわからない、やっぱり読みたい、けれども六千円は……と逡巡しているうちに関口さんが「だれか代わりに読んでください」という連載をはじめたというお知らせを目にした。その第一回が『失われたスクラップブック』だったのだ。わたしはこれだ……!と思った。関口さんの代わりに読むことを口実に六千円を支払うのだ。そして六千円もの大金を支払ったのだから絶対に代わりに読まなければならないという義務を発生させる。こうして『失われたスクラップブック』はわが家の住人として翌日には迎えいれられ、ひとまず黒田夏子の隣にしまわれた。

 そもそも「代わりに読む」とはなんなのか。『『百年の孤独』を代わりに読む』の友田さんは、代わりに読むうえで心がけることとして、

  • 冗談として読む
  • なるべく関係ないことについて書く(とにかく脱線する)

という二点を挙げている。また『百年の孤独』は20の章(のようなもの)に分かれているため、その章をひとつずつゆっくり読みすすめてゆくという形式がとられている。これを『失われたスクラップブック』に適用しようとすると、すくなくとも前者の二点はできるにしても、ピリオドがないゆえに章立てはできないだろう。どのように「代わりに読む」をやればいいのだろうか。路頭に迷っている。

 そんな迷子のわたしをよりいっそう迷わせる冒頭をダーラはくり出してくる。

 ――そうです、はい、もちろん

 ――では、医学に関してはどうですか……?

 ――あのですね、はい、そうです、それも当然……

 ――では法学は――?

 ――もちろん

 ――では林学は

 そちらの方面は――?

 ――それも大いに

 ――では――?

 ――それもとても……

 ――ひょっとして――?

 ――言うまでもなく――!(p.7)

 なにやら怪しい面接が始まってしまった。本でも読もうと入ったカフェの隣席で始まってしまったがゆえに読書どころではなくしてしまうタイプの面接が始まってしまった。盗み聞きをしたいわけではないのだけれども、何の話? ちょっと怪しくない? と聞き耳を立てずにはいられない。おずおずとヘッドホンを外し、文庫本に目を通しているふりをしながらも神経はかれらの会話に費やされている。

 わたしがこれを読んでいたのは土曜夕方五時のコメダ珈琲でのことだ。あと数席で満席になりそうな程度の混雑で、わたしはカウンター席に通された。右隣には競馬新聞を広げたおじさんが、左隣にはビビッドなピンクで着飾ったお姉さんが目元の化粧をしていた。おしぼりとお冷を持ってきた店員さんにアイスコーヒーを注文する。もう陽も暮れてきて肌寒いというのに、反射的に注文してしまったそれをあとになってすこし後悔した。

 本のなかで行われているのはどうやら就職相談らしく、だというのに「人間とは、してはならない所で小便をする動物だ」などと、いかにも本質めいた発言が飛びだす。いったいどんな場所でこの会話はなされているのだろう。そしてこの面接を受けている生意気でうざったい人物はどんな顔をしているのだろう。もしもかれらとわたしがカフェで行き合った客同士であれば、その顔をちらりと見やることができるのに、わたしの隣には横にしたスマホで競馬を眺めるおじさんと、長いこと瞼を触っているお姉さんしかいない。すこし遠くのボックス席では「シロノワール食べたい!」とごねる子どもが「食べきれないでしょう」となだめられていた。

 しばらくして左隣のおじさんが新聞を畳み、右のお姉さんも化粧道具をポーチにかちゃかちゃとしまいはじめると、わたしはいつまでこのお店に滞在していてもいいのだろうかと心配の念が生まれてくる。満席ではないにしてもそれなりの混雑なわけだし、時間制限はないとはいえそもそも飲食が主目的のお店なのだから、そう長居すべきではないことはわかっているのだけれども、その「長居」とは具体的に何分を超えたあたりからのことを言うのか。いっそ購入金額にしたがって滞在可能時間が指定されていたほうが気が楽である。とはいえ摂食障害をもつわたしにコメダのボリューミーな食事は難易度が高く、追加注文もできない。コーヒー一杯で粘る客にはなりたくないし、いつまでいさせてもらっていいのだろうか。

 カフェでの読書はいつだってこういう煩悶に満ちている。購入金額と滞在時間を天秤にかけ、着席率を確認し、お店の不利益にならないような時間で席を立とうと計算する。そうこう考えているうちに文章を追う視線は時計と周りの席を確認するばかりになる。気分転換にと試みられたカフェ読書はたいてい失敗に終わる。

 以前カフェチェーンでアルバイトしていたころを思いだすと、四時間以上の長居をする客はそうすくなくはなかった。短めのシフトで入った日なんかは、お店をあけてからわたしが退勤するまでずっとパソコンで作業をしているひとを見ることもあった。お店は空いていたし、なによりそれを注意したところでわたしの時給は変わらないのだから放っておくのが常だったけれども、長居している客の存在は視野のなかで一際目立って見えた。だれの目にも目立って見えるから「あのひとめっちゃ長くない?」とスタッフのあいだで囁かれる。つまり長居は店員にバレるし、店内での存在感を増してしまうのだ。目立ちたくなければ、「長居」とされない時間でうまく退店しなければならない。

 こういうふうに気を揉むわたしのような人間でも気兼ねなく過ごせる料金体系というのが、fuzkueのそれである。というのも店主である阿久津隆さんはそれはそれは外での読書に難儀してきたひとなのである。著書『本を読める場所を求めて』には、カフェ、喫茶店、バーなどで読書をしてみた経験から、本の読める場所のなさが書きつらねられている。まさしくいまのわたしがコメダで感じている憂いはこの本のなかにも現われる。

さて、その中で、この1杯で、自分はいったいどれだけの時間、ここにいることを許されているのか。「歓迎できる客」でいられるための条件は? 「500円の客」を、この空間はきっと、何時間も歓迎しないだろう……ではおかわりをしてこれが「1000円の客」になったら? ホットドッグも追加して「1500円の客」になったら? 単価で考えてくれて、歓迎時間はその都度、延びていくのだろうか。それとも一義的に「長くいる」というだけでどこか迷惑な感じで捉えられるのか……これがさらに満席にでもなって、次にやって来た人を断っているような場面に出くわしたとしたら……? 店の態度が表明されていない以上、考えてみても不毛な推測しかできない。余計な心配ばかりが出てくる。客は、空気を読むことしかできない。
――阿久津隆『本の読める場所を求めて』(朝日出版社)p.73

 本を読みにきたというのに、結局読んでいるのは空気――カフェ読書の悲劇である。そんな経験から回転率や単価を考えずに過ごせるよう発明されたのが「オーダーごとに小さくなっていくお席料」だ。ホームページにある料金説明を引いてくると、コーヒー1杯(700円)の注文なら席料は900円で合計1,600円になる。コーヒー2杯(1,400円)なら席料は300円で合計1,700円、コーヒー2杯(1,400円)とケーキ(500円)なら席料はゼロで合計1,900円、といったようにだいたい予算が2,000円程度になるように席料が変動する。また、4時間を超える滞在の場合は1時間ごとに席料が加算されてゆくから、店の利益率を落としている感覚が生まれないようになっている。

 nensowによる環境音楽「music for fuzkue」が流れるなか、大きなクッションに背を預けて本を読む。たまたま隣りあわせたお客さんがページをめくる紙の擦れる音が聴こえる。当然のことながらパソコンの使用や会話をする者はいない。fuzkueではメニューと同時に案内書きが手わたされ、そのなかには過ごしかたのマナーが事細かに書かれている。タイピング音やペン先を出し入れする音など周囲にストレスを感じさせるような音は出さないよう最初から決められているのだ。回転率も利益率も気にしなくていいうえに、気を散らす雑音もない、そしてともに読む者=同席した客の存在もたしかに感じられるというまさしく「本の読める店」がfuzkueなのである。

 コメダ珈琲店は当然ながらfuzkueではありえないような音と声に満ち満ちている。さきほどシロノワールを食べたがっていた少年はけっきょく希望を押しとおしたようで、ソフトクリームのそびえたつそれが届くと「でっか!」とはしゃいだ。「ほんとうに食べきれるの?」といまだ疑い気味の母に、「食べきれるもん!」と豪語する少年。母は、残した分はあなた、お願いね……とでも言わん顔を夫に向ける。競馬のおじちゃんがいなくなった左には大きなヘッドホンをつけた大学生らしき黒ずくめがやってきて、「ご注文お決まりになりましたらボタンかモバイルオーダーで」と言う店員さんの声をさえぎって、「シロノワール、ホイップ変更・よく焼き クリームソーダデラたっぷりサイズで」とまくし立てる。後ろのほうの席では届いた商品をスマホのカメラにおさめようとするシャッター音が響く。なかなか思ったようにいかないらしく何度も何度もその音はくり返されていた。その音が鳴りやんだころにはきっと「コメダなう」という文言とともにその写真はアップされるのだろう。

 コメダでの読書を試みるわたしの耳は、店内にこもるさまざまな音と声に晒されるなかで特定のものを抽出し聞きとってゆく。その意識は浮遊し移ろってゆくものだ。シロノワールの少年に耳を澄ませていたはずなのに、気がつけばシャッター音ばかりを拾っている。読んでいる小説のなかの語りもフィリップ・グラスの「フォトグラファー」を聴いているうちに視覚と聴覚が「絶え間なきうねり」となって織りこまれ、老人の帽子、風、子どもたちとイメージがつながってゆく。そのまま進んで「道を譲れ」という章題を過ぎると、気づかぬうちに語り手の声が変わっていた。就職相談のふたりはどこかに飛んでいってしまい、「僕」が通りを歩いている。

 声が混線するこの小説の感じは、まさしく騒がしいコメダ珈琲店の店内だった。小説の紙面から目に飛びこんでくる語りの煩さと店内の騒がしさとが同期される。もしもこれをfuzkueで読んでいたらどうなっていただろうか、と想像する。エヴァン・ダーラの饒舌な語りが響きわたる脳内と、洒落たアンビエント・ミュージックの流れる店内の温度差でめまいを起こしているのだろうか。もしくは感染力の強いダーラのおしゃべりが乗りうつったがゆえにわたしも応答して声を出してしまっているのではないかと心配しているかもしれない。コメダの喧騒はダーラの饒舌を中和してくれるうえに、多少ならば声を出してしまっても大丈夫だという安心感をくれる。『失われたスクラップブック』はコメダ――ではないにしても、会話の活発なカフェや喫茶店で読むべき小説であるように思う。このほかに喧騒が魅力を引きだす小説はあるのだろうか、すくなくともいまのわたしには思いうかべることができなかった。おなじくピリオドのない章のある『ユリシーズ』は、逆に静寂で集中して読みたい。

 時計を見るとなんだかんだで一時間半ほど滞在していて、残りも二割ほどになったアイスコーヒーを啜って荷物をしまった。そろそろ帰ったほうがいいかしらという意識が突如として強烈に働いたのだ。おなじコメダでもだれかと話している分にはそこまで感じない罪悪感のようなものを、ひとりで読書目的に使っていると強く感じる。友だちとの会話で長居するのは正統な使途であるのに対して、ひとりで読書をして過ごすことはどうもズルのように感じている節があるのだろう。逆に友だちと駄弁りなが飲食店で過ごす時間はあっというまで、罪悪感をおぼえることすら忘れてひどく長いあいだ滞在してしまっていることがよくある。

 中学生のころ、考査前の勉強のため友だちとサイゼリヤに行っていた。日曜日のショッピングモールはおなじような年頃の学生たちであふれ、WEGOINGNI、Honeysのお手軽な洋服に身を包んだ女の子たちがウィンドウショッピングを楽しんでいる。μ's最盛期の当時ラブライバーだったわたしたちは、ファッションには目もくれずスクフェスの譜面を叩いた。サイゼリヤの名簿に名前を書いてから呼ばれるまでの時間も惜しんでプレイしていた。

 お決まりのミラノ風ドリアとドリンクバーの最安値セットを食べおえてからもしばらくは部活や先生の愚痴だとか今季のアニメの話でひと通り盛りあがり、そうしてようやく教科書をリュックから取りだす。当時はというと豚鼻をかたどった革のモチーフのついたリュックが流行っていて、わたしも水色のそれを使っていた。よし、いい加減やるか、と広げた教科書の前でシャーペンの芯をくり出す。虚数iがところどころに散りばめられているのが視界に入った瞬間、本を閉じてしまいたくなる。数学が得意な友達に早々に助けを求めようとしたちょうどそのとき、強面の店員さんがポニーテールを揺らして足速にやってきて「店内での勉強はご遠慮いただいております」とぴしりと言いつけた。わたしたちは困惑して返事もうまくできないまま、目を見合わせて教科書と筆箱を急いで片づけた。

 本来勉強をしにきたのだから、そこで勉強ができないとわかった以上はさっさと帰って家でやるべきである。それはもちろん正論としてわかっていたのだけれども、せっかく日曜日に友だちと来たサイゼリヤ、そう簡単に帰ってしまってたまるかという意地があった。中学生らしい屁理屈を振りかざして、勉強さえしなければいてもいいんでしょうと開きなおりわたしたちは長い時間話しこんだ。勉強道具さえ出さなければ、客としてのわたしたちは店員さんの視野に入らないのではないか。教科書の存在が透明人間だったわたしたちを一瞬だけ顕現させたのではないか。教科書のないわたしたちは、だれにも見えていない――中坊のひねくれた自意識がそう思わせた。

 ふとサイゼリヤで長居していた日に意識が飛ばされていったのは、「僕」がみずからの存在感の薄さを発見しているからだった。

僕はこの八日、ずっと誰にも気づかれずに暮らしてきた ウォールナット通り地区を歩き、バスを待つふりをしてグレンストーン通りに立ち、スポンジ状になったパンの食べ残しをゴミ捨て場で探し、簡易食堂のテーブルに残された食べさしのチョコレートケーキを食べ、ついでにそこでトイレを使うけど、警官に呼び止められたことは一度もない サイレンを鳴らされたり、尋問のために署に連行されたり、身分証をチェックされたり、保安装備を身に着けたいかつい男からさりげなく鋭い目を向けられたりしたことが一度もない 彼らのせいで僕が自らの軌道を変更したこともない つまり彼らは僕の不可視性を完全に認めたわけだ……こうして今、僕はついに非存在へ向かう自分の傾向を徹底し、予想だにしなかったレベルにまでその完成度を高めた この世で今、僕が持つ唯一の機能は自分がいかに些末な存在かを証明する受け皿になること 僕にまとわりつくあらゆる経験は新たに消しゴムでこする行為に他ならない そして経験は尽きることがない……(p.12)

 サイゼリヤで教科書がわたしたちから透明なヴェールを取りはらったとき、わたしたちは、どうして話すのはいいのに勉強はだめなんだろう……と注意してきた店員さんを邪険に思い、その理由を話し合った。会話にはなくて勉強にはあるもの、勉強だけがかける迷惑――消しカスじゃない?と友だちが気づく。仮にも飲食をする場所で消しカスを出されてしまえば衛生的に問題があるだろうし、掃除の手間を増やすことになる。消しカスという絶対的な迷惑の存在があって、わたしたちの姿が店員さんに視認されてしまったのだ。『失われたスクラップブック』の「僕」は、自分の行為は自分自身の存在感を「消しゴムでこする行為に他ならない」と言う。わたしは消しゴムをこすらせないという目的でまなざされることによってようやく存在が立ちあらわれてくると思う。こすられなかった消しゴムをしまい、帰るわけにもいかない意地に雁字搦めになってわたしは身動きがとれなくなっていた。

 みずからの経験によって自分の存在の軽薄さを証明するまでもなく、消しゴムすらこすらせてもらえないわたしとはいったいなんなのだろう……ふと気づけば蛍のビデオ撮影が始まっていた。「こいつら実は、もともと光っているんじゃないか――光っているときの方が、実は本来の状態なんじゃないか」「繰り返す、周期的な鬱」デイブとジャーゲンと名乗るふたりの男が蛍を躁鬱のメタファーとして捉えなおそうとしている。蛍は光るのではなく、定期的に暗くなっているのだと考えるかれらはいままさに躁鬱の躁のターンにいるようである。なんでもできてしまいそうな万能感に包まれたいまの自分こそが本来の自分であると信じこむ――躁である。あるいは蛍は光るものであると考えるのは、鬱の底に滞留していることの象徴であるのかもしれない。もう二度と光ることはできないかもしれない絶望的な展望に頭をもたげ、きっともう自分は暗闇に溶けこんだまま一生を終えるんだ……と悲観的になる蛍――鬱である。蛍は躁鬱だったのである。

 この『失われたスクラップブック』を読みはじめるころにあたらしく処方された躁鬱の薬は、カプセルが大きく飲みこみづらかった。あまりカプセルの薬を飲んだことのなかったわたしは主治医の「(カプセルは)水に浮くので顎を引くと飲みやすいです」ということばを信じて毎晩首の皮膚に顎の先がふれるほど下を向いて飲んでいる。このほかにも二種類の躁鬱の薬を飲んでいて、たしかに永劫に光れないことへの蛍の絶望を見えにくくする作用は感じられるのだけれども、それがいかに作用しているのか、そのプロセスはまったくといっていいほどわからなかった。あたらしい薬は飲みはじめの副作用が重く、しばらくは胃の輪郭がはっきり意識されるようなきもちのわるさに襲われつづけている。目は文章を上から下に追っていても、気持ちはどこか胃の表皮といまにも吐きそうな喉元の感覚に集中していた。なにかの拍子に堤防が決壊して嘔吐してしまうのではないかという恐怖はずっとあるもののいまだ吐かずにいられているのは、その「なにかの拍子」がピリオドによって引きおこされる可能性が打ち消されているからかもしれない。ここできもちよくピリオドが打ちこまれてしまったら――それこそカフェに長居するノマドワーカーがッターン! とEnterキーを押すように――、気のゆるみが嘔吐を許してしまう可能性は充分にあった。ピリオドのないテクストに「まだ吐くな」と言い聞かせられるようにして読みすすめている。

 悪心のするときに甘ったるいお菓子の話をしないでほしいというのは切実なのだけれども、アニメーションをつくる話からラジオの話に潜ってゆくと、いつからか現れたレイモンドという男と「俺」がお菓子を食べている。

俺がベッドに横になると、あいつ(レイモンド・引用者註)は蝶みたいに畳んだ腕で頭を支え、床に寝そべった チョコパイとか、たまにはエンゼルパイとか、たいていはそのどちらでもなかったが、何かのおやつが前もって用意してあった 言い方を変えると、俺たちは静寂を、本当に静けさを成し遂げ、おいしいものを食べ、ポスターや写真の貼っていない天井を見つめた(p.59)

 わたしはここで吐き気を忘れて首を捻った。「チョコパイとか、たまにはエンゼルパイとか」――? このふたつは決して並列に並べてはいけないお菓子であるはずなのに、かれらは「とか」という二文字で簡単に並べてしまうのか。苦い記憶が蘇る。初めて食べたチョコパイに、この世にこんなにもおいしい食べものが存在してもいいのかと混乱した。冷蔵庫で冷やされたそれの表面はパリパリと割れ、なかのクリームは手のひらに落ちてきた雪のひとひらのごとくあっというまに舌のうえで溶けてゆく。しかもチョコレートとスポンジ、クリームという三種のちがった甘味をひとくちで楽しめてしまう――革命だ……お菓子の革命だ! ケーキ屋さんに行かずともこんなにおいしいチョコレートケーキが食べられてしまうなんて、あまりにもすばらしい時代! ――その感動が打ちくだかれたのはいつのことだったろうか。口のなかの感触だけが鮮明に記憶されていて、だれとどこにいたのか、外部の知覚はすっかり忘れさられてしまっている。小学校が終わって友だちの家に行ったときだろうか、それとも休日の昼食にそうめんを食べたあとのおやつタイムだったろうか、もしくは300円と決められた遠足のお菓子として買ったのだろうか。チョコパイだと思って食べたそれはふわっと噛みきれず、ねちっこい飴のようなものが歯にまとわりついてきた。甘さも過剰で思わず吐きだしてしまいそうになるところを手で口を押さえぐっとこらえる。思い返せば吐き気がするほど不味かったというわけではないのだけれども、想像していた味との差に舌も脳もおどろいて、反射的に戻そうとしてしまったのだと思う。友だちのお母さんが出してくれた手前――もしくはわたしがチョコパイ好きなのを知って母が出してくれた手前――あるいは芝生に敷いたレジャーシートを囲う同級生がいる手前、吐きだすことは現実的に不可能だった。すべての感覚を混乱させながら飲みこんだエンゼルパイのことを、もうきっと15年はゆうに経っているだろうが忘れられない。それ以来一度もエンゼルパイは買っていない。

 原書が手元にない以上、ダーラが「チョコパイ」「エンゼルパイ」という単語を使ったのか否かは知ることができず、翻訳の木原さんによってジャパナイズされた可能性は捨てきれなかった。しかしあのエンゼルパイの悪夢を思いだすと、ねちっこさを口に含んだ当時のわたしがこの部分は追求すべきだと言ってくるようだった。そもそもチョコパイやエンゼルパイは世界的に展開されている商品なのだろうか。『失われたスクラップブック』が出版されたのが1995年のことだから、執筆期間はだいたい90年代前半と見積もっていいだろう。わたしは森永とロッテのお客様相談室にメールを送った。要約すれば、90年代前半のアメリカとフランスにおけるチョコパイ/エンゼルパイの販売について教えてくださいというものだ。夕方6時ごろに送ったメールは両者ともに翌日正午には返ってきた。しょうもない好奇心に付き合わせてしまって申し訳ないというきもちと、とくに森永には購買層でもないのに一丁前に問い合わせだけはする図々しさに肩身を狭くした。

 エンゼルパイは90年代に世界展開しておらず、チョコパイのほうは相談室には答えられる情報がないとのことだった。メールには簡潔に販売の歴史が書かれており、エンゼルパイは1961年に、チョコパイは1983年に発売されたらしい。まるでチョコパイこそが正統でありエンゼルパイは外道であるかのようにふるまってきたけれども、真実はまったくの逆であった。すくなからずその事実はわたしを動揺させたし、もっとおどろいたのはエンゼルパイの発売からチョコパイの誕生までのあいだにわたしのこれまでの人生がほぼすっかり入ってしまうということだった。マシュマロをスポンジで挟んだときからそこにクリームが注入されるまでのうちに、産声をあげたばかりだったはずのわたしは姉になり、慣れない集団生活に孤立を体験し、アニメの世界にのめりこみ、祖母を喪い、食べることがうまくできなくなり、同期たちが社会に出ていくのを学生として送りだす立場にまでたどり着いていた。それだけの成長と変化の時間を経てようやく、マシュマロはクリームになる。幼かったわたしを感動させるだけのおいしさには、二十数年間のわたしによって生きられた時間が重なっていたのかもしれない――当時のわたしには知りようもないことではあるのだけれども、あのときわたしは未来へと堆積した時間を口にした――わたしの味覚を感動させたチョコレートとスポンジとクリームの層は、折り重なった経験と記憶の層だった。

 22年間をチョコパイの層だとするならば、これから先の人生はひたすらその層を増やしてゆく作業をくり返してゆくのみなのだろう。それはチョコパイというよりはむしろミルクレープといったほうが近しいのかもしれない。ひどくやせた杵で生地を鉄板にまるくひきのばしクレープをつくる……生クリームを混ぜて濾す……濾し器の網の目に幾らかのダマがひっかかって残る……回転するクレープのうえにスパチュラを押しあててクリームを伸ばす……ずれないようにクレープ生地を載せる……ルーティーン化された製造過程は日々くり返され、気がつけばケーキの背丈はわたしの目の位置を超えている。すべてを投げだしてモンブランのクリームを絞りたい日もあるけれども、毎日はどうしようもなくおなじことのくり返しで、クレープとクリームの生地を重ねてゆくしかない。完成するのかも――そもそもこのミルクレープの「完成」とはなんなのかもわからないままに、習慣だけが重ねられていった先にはなにが待っているのだろう。最終的な終着地であろう死への想像はいつだってままならない。わたしはいったいどう終わるのだろう。わたしという物語をいったいどう終わらせようか。

以前見たある映画が何となく頭に浮かんだ タイトルは羅生門 俺はなぜか、映画のラストで泣いた 映画が終わってほしくない、話に決着をつけてもらいたくない、と思ったのを覚えている 映画がずっと続いてほしい、さらに別のバージョンにつながってほしい、また別の人物が登場して、新たな視点から話を物語ってほしい、と思った だから映画が必然的に結論に達し、劇場に灯がともったとき、俺はすごく動揺した 家に戻る途中も必死に涙をこらえ、拳を口に当てていたのを覚えている だからネヴィルの家で過ごしたあの夜、俺はソファに座って、他のみんなが次々に話をするのを聞きながら心に決めた 俺はその場にいる人間の中でただ一人、何も言わないでおこうと 思い出話はしない、レイモンドとの経験は話さない、と ただみんなの話を聞くだけ、そうやって参加するだけ だって、そうすれば、俺が何も言わなければ、ひょっとしたら映画が――レイモンドという映画が――終わらないかもしれないから そうすれば、ひょっとすると、終わらなくなるかもしれないから だから俺は黙っていた(p.64)

 話題のひとつとして「自分の葬式で流したい曲」というのが頻繁に語られる。わたしは「ヒャダインのじょーじょーゆーじょー」か「ミスター・ブルー・スカイ」がいいと思っているけれども、自分の葬式をやってほしいとは思っていない、むしろやらないでほしいくらいだった。それだけわたしたちは自分という物語の終わり――自分という映画のエンディングテーマを想像しているというのに、それが他者のものになった途端に終わらせたくないと駄々をこねる。「俺」は「思い出話はしない、レイモンドとの経験は話さない」ことで、わたしは祖母のLINEトークを延々消さずにいることで、かれらの物語が終わっていない可能性を残しつづける。もう終わっていることはわかっているのに、明るくなった劇場で席を立てずにいる。閉じられることがわかっているこの『失われたスクラップブック』だってその奇天烈さゆえに終わりは想像はつかないけれども、どこか終わらないでと願っている――この奇怪なのに心地良い文章にずっと身を浸していたい。だれだかわからない語り手――気づけば主語は「私」に変わっており、舞台は戸別訪問へと移っている――の声がいつまでも響いていてほしい。

 しばらく「私」たちによる会話が続けられていた紙面は、突如として電波が悪くなる。

 ――オーケー……オーケー 今ちょっとこちらに――お電話のようですね――はい……? オーケー……もしもし もしもし……もしもーし――つながってますか……? 駄目……? つながってる……? 誰かいますか……? いない……?(p.81)

 改行だらけで白の広いページで、アンテナを調整してもうまく拾えないラジオからニュースがぶつ切りに流れている。

……広告に発がん性があるという発表が行われました……(p.99)

 目に見えない放射能の危険性に怯えていたころから、コロナ禍の感染者数の増え幅に目を凝らしていた数年前のあいだにすっかりテレビは見なくなってしまったけれども、それでも外出できなかったあの日々を思いだそうとするとどうしてもそれはテレビの音声をともなってくる。「まん延防止等重点措置」を「まんぼう」と当たり前のように略して発声しつづけるアナウンサーたちによって、魚のマンボウは名前を奪われた。住んでいる県の感染者数が爆増した日には母が不安定になった。そして放射能の存在を恐れていた祖母は、コロナウイルスを恐れることすらできなかった。もしも祖母が健在であったら、彼女はコロナ禍をいかに生きただろうか。答えのない問いが外出のできるようになったいまでも響いている。森でキノコを探す男が「ああ、頼むから……」「今度は、むしばまれた人間の希望と同じ模様の樹皮を見かけときに声を掛けてくれ」と訊いていたとき、その模様は黄疸にむしばまれた柔らかい祖母の手に浮かんだシミとして読まれていた。

 去年の十ヶ月ほどをかけてプルーストの『失われた時を求めて』という長大な小説を読破した。この小説には祖母の死が主人公「私」を大きく揺らがすできごととして描かれている。第四篇「ソドムとゴモラ」に収録された「心の間歇」という短めの章では、祖母の埋葬後一年以上が経ってようやく「祖母の死」をあらためて知るそのプロセスが詩的に描かれる。わたしは当然のようにこの部分を七年前に癌で亡くなった祖母とわたしの関係、そしてわたしが祖母を想う感情として読み換えていった。

この苦痛こそ、祖母の想い出から出たものであり、その想い出がまぎれもなく私のうちに現存する証拠だと感じられたからである。私が祖母を本当に想い出すことができるのは、ひとえに苦痛を通じてであると悟り、そうであれば祖母の記憶を私のうちにつなぎとめている苦痛の釘がもっと私のなかに食い込めばいいとさえ思った。

――マルセル・プルースト失われた時を求めて(8)――ソドムとゴモラⅠ』(岩波文庫)p.358

 祖母に言うべきではなかったことを言いはなってしまった後悔をわたしはずっと釘として打ちこみつづけることで、祖母の想い出を保持している。わたしは祖母が亡くなってからの六年間、プルーストの言う「釘」によって祖母の輪郭を忘れないようにしていたのだと思いこんでいた。プルーストを読みおえたいまになっても、かれの死生観はわたしに根を張り、まるでもともと自分が持っていた観念であるかのように考えられる。果たしてほんとうにそうなのだろうか――わたしはほんとうに苦痛の釘によって想い出を消失せずにいられているのだろうか。プルーストの語りと自身の経験が重なる領域の広さによって、わたしはプルースト以前にどうやって祖母を思いだしていたのかもう想像することすらできなかった。ダーラは言う。

私はよく思うのだけど、私は自分で思考しているというより、自分の思考を立ち聞きしているんじゃないか 他人の間で交わされる会話に私が耳を傾けている、つまり他人が私を思考しているのではないか だって本当のことを言うと、私の中から湧き出していると思える言葉は一つもないから 思いがけない悲鳴、心から出る驚きの言葉でさえ、他人に決められたものだ(p.213)

 印刷された――もしくは液晶に表示されたテキストを目で追って「読む」という行為には、こういうおそろしさがある。まるで受動的にみえる「読む」だけれども、みずからの経験や記憶を響かせすり合わせてゆく主体性はつねに必要とされる。身を乗りだして小説を「読み」、過去の哀しみなんかを思いだしているうちに、そのテクストが自分の内部で出力されたものなのだと思いこんでしまう。わたしがふとした瞬間にあげる「思いがけない悲鳴、心から出る驚き」は、「他人」=本に決められたものばかりだった。とくにその「他人」の大部分を占めるのがプルーストであり、またそこにはヴァージニア・ウルフがいる(のだけれども、ウルフもまたプルーストを読み影響を受けている)。彼女はプルーストを「極度の感受性が極度の根気づよさと結びついている」と評価する。

 ヴァージニア・ウルフは1941年3月28日に59歳の若さでポケットに石を詰めてウーズ川に入水して亡くなった。以下に引くダーラの語りはそんなウルフの最期――一歩一歩歩みを進めてゆくその姿がヴィジョンとして脳裏に描きだされるのは、『めぐりあう時間たち』でニコール・キッドマンが演じた後ろ姿によるものだった――を想起させ、死なないでほしかったとあらためて思わずにはいられない。

飛び込み自殺をする人々は皆、流れになること、水のようになること、人間でできた滝になることを求めている……苦悶するばらばらな肉体から、恥を知らない一塊の情報に変わる……丈夫なデータの世界へ……力強く……証明可能な……次元を超えた……肉と縁のない世界……恐れられている辺境に一縷の悲しい望みを賭けて……こうして人は自覚することなく、自らの主張を後世に伝える(p.264)

 ウルフは「流れ」「水」「人間でできた滝」になってしまったけれども、その想いはたしかに今世紀まで受け継がれているし、すくなくともわたしは摂食障害双極性障害をもつ人間として、ウルフの叫びを自分の内部にくすぶる痛みと同期させて読んでいる。たとえば『ダロウェイ夫人』には「肉の煩い」という表現で、身体への嫌悪感がまざまざと書きしるされている。

わたしが抑えなければならないのは肉の煩いだ。クラリッサ・ダロウェイはわたしを侮辱した。それは予想のついたことだ。でも勝利できなかった。肉の煩いを克服することができなかった。わたしが醜く、ぶざまなこと、クラリッサ・ダロウェイはそのことを嗤った。そして肉の煩いをよみがえらせた。あの女と並んだとき貧相に見える自分が嫌でたまらなかった。あの女のような話し方もできなかった。だけどなぜあの女のようになりたいと思うのだろう? なぜ? ミセス・ダロウェイを心底から軽蔑しているのに。

――ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(集英社文庫)p.229

 わかる……「肉の煩い」、わかる……人混みではかならず他人の体型を確認しているし、トイレの前身扉に写った自分のからだを見てはいますぐにこの肉を脱いでしまいたくなる。この肉体さえなければ、世界が『攻殻機動隊』になってくれさえすればわれわれはきっと摩擦なく生きることができる。しかしまだ肉のある世界ではそれに煩わされつづけねばならない。比較に囚われながら自分のからだを見つめつづけ、いつしかゲシュタルト崩壊を起こした視覚がうまくからだの輪郭を認識できなくなる。おなじような感覚をおぼえていたひとが百年前にもいたことには救われる――だからこそ彼女が自死を選んだことがひどくこわい――みずからをウルフに投影しすぎていて、自分も死を選んでしまうのではないかと漠然とおそろしくなる。

 ダーラに戻って、

――それからジーンは普段の声に戻って肩をすくめ、リッチーと同じことを言ったんだ、“お・は・みん・し”って だから俺は訊いたよ なあ、今の言葉ってどういう意味? 前にも聞いたことがあるんだけど、って(p.407)

 なぞなぞの気分で解こうとして、いったん「おはよう、みんな氏!」と回答を置いてはみたけれども、飛んでいた答えはペシミスティックだった。

知らないのか?――遅かれ早かれみんな死ぬってことさって(p.407)

 まるでわたしはヴァージニア・ウルフが入水を選んでさえいなければ永遠の生を授かっており、2025年にも生きていて、会いに行けたのではないかと思っている節があった。いくらウルフを神聖化しようと彼女も「お・は・みん・し」だったはずで、わたしと生きる時間が重複することはありえなかった。それでももうすこしだけ生き延びてほしかったと思ってしまうのは、彼女の死をあと5年ほど延期できていれば、わたしの祖母とウルフの生が重なることにすこしまえに気づいたからだった。老年のウルフと産声をあげたばかりの祖母が、サセックス山口県というはるか彼方の土地で時間を共有することがわたしにどう影響を与えるのかはわからないし、きっと特段の変化は起こらないのだろう。むしろ彼女たちの生が重なることによって運命は絡まり、わたしがウルフの小説に出会えなくなる可能性もあったのかもしれない。どうにもならないもしもの世界を夢想し、脳内でマルチバースを分岐させつづけてばかりいる。

 いろいろな人間のマルチバース妄想でも手繰るように進んできた混沌の『失われたスクラップブック』だったけれども、残すところ150ページというところで話は一気に一筋にまとまってくる。どうやらオザーク社という会社がイソーラという町で汚染物質を垂れ流しているらしい。オザーク社は潔白を証明すべく会見をひらくけれども、住人たちのはげしい反発に遭う。住人たちは叫ぶ。「まともな説明をしてないじゃないか!」「いつもと同じたわごとを繰り返してるだけだろ!」「こっちが話を聞いてないんじゃなくて、そっちが何も言ってないんだろ!」

 見覚えのある光景だった。凍てついた空気に荒っぽく木が乱立した村の集会所で行われるグランピング施設計画の説明会――渋谷で見た濱口竜介の映画『悪は存在しない』の一場面である。そういう施設運営を本業とするわけでもない芸能事務所がコロナ助成金目当てで立てたその計画は、あまりにも粗雑で、村の天然水を汚染するものだった。架空の町・水逸町(みずびきちょう)の水を守るべく住人たちは説明会で反論意見を投げつづける。客席でスクリーンを見あげるだけのわたしもどうかこのうつくしい水が失われないようにと願っていた。あの水でつくったうどんのもちもちとした歯切れを失くしてはならない。

 イソーラにも水逸町のうどんに匹敵する宝があったことだろう――しかしそれは置き去りにされざるをえなくなった。ひとびとは逃げまどう。荷物を持って、「エンゼルパイを一個だけ」手に取って(ここでわたしは究極の状態に置かれたときに選ぶのはエンゼルパイのほうなのかと小さなツッコミを入れる)、通りから通りへと駆け、ダイナミックな宇宙と粒子の混淆を経てようやくピリオドが打ちこまれる。そこから続く沈黙は『悪は存在しない』の最後、案外悪いやつでもないと判明したグランピング開発の男の首を絞め気絶させたあと、負傷した娘を抱きかかえて走りさる大美賀均の後ろ姿を見つめていた、あの時間と均質だったように思う。突如として噴出した暴力性に「悪は存在するのか」と問いかけられる。オザーク社は悪だったのだろうか――たしかに当初汚染はないと言い張っていたことを思えば圧倒的な悪であるのかもしれない。しかしこの村の崩壊もすべては「バランス」を取るため――『悪は存在しない』の大美賀は「大切なのはバランスだ」と強調する――とも思えてならないのだ。世界のすべては「バランス」のために調整されている。ウルフと祖母が被らないことも世界の「バランス」であったのだろう。そしてかれらが死に=かれらの生にピリオドが打たれたあとも、沈黙というかたちでふたりは雄弁に語りつづけている。いまだピリオドなしの生を続けている――そしてしばらくは終える予定もないわたしは、沈黙ゆえに「沈黙」とすら言えないふたりの死後の世界を、遊歩的で冗長な語りで埋めてゆくしかない。

 関口さんは「代わりに読んでください」でこう書いた。

ピリオドがない、というのはユートピア的でもある。どこにもない場所であるユートピアとは、どこかにあることを願ってそこに辿り着くことを目指している限り「どこかにある」存在であり、ここがユートピアだとピリオドを打った瞬間に姿を消す、もしくはディストピアのはじまりとなる。

 わたしたちの生はピリオド以降のものと、ピリオドを延期しつづける長いテキストとが混ざりあってできている。つまりはユートピアでもディストピアでもあるこの世界で、死者のピリオド以前の時間を希求し、いま・ここに存在せざるをえない肉体に雁字搦めになりながらもスペースでことばを継いでゆく――閉じられたはずの『失われたスクラップブック』という物語から、黙ってはいられないわたしの明日が明けてゆく。

 

【余談】本編・註に続いて「エヴァン・ダーラ年譜」というものが掲載されている。1981年から2022年までの世界史と文化史がまとめられており、伊丹十三から庵野秀明ウエルベックまで縦横無尽に年代を駆けぬけている。そして当然のことなのだろうか、2021年の欄には濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』が掲載されていた。はたしてダーラは『悪は存在しない』を見たのだろうか。あのうどんをどう思ったのだろうか、それだけ訊いてみたいと思った。